「母の友」2017年4月号の記事を転載してお届けします。「母の友」は、園や家庭で、子どもたちとの日々がもっと楽しくなるような「子育てのヒント」と「絵本の魅力」を毎月お伝えする雑誌です。

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遊びの本質とは?
変わりゆく社会の中で生きるために


杉本厚夫さんは、子どもの遊びの世界を通して社会を読み解く本、 『「かくれんぼ」ができない子どもたち』の著者です。

杉本さんに聞きました。子どもの遊びの本質とは?

そして、あるべき大人のかかわり方とは?

遊びの本質について


私は遊びの本質は「自由」だと思います。

本来、遊びは「子どもが大人の制約に縛られず、やりたいことを、好きなようにやること」。大人が用意した場所や道具で、想定された行動をすることではありません。

たとえば子どもは、道ばたの棒きれなど、遊び道具ではないものを使って、自分で好き勝手に考えた遊びをしますよね。それが本来の遊びです。

決められた枠から外れていくところにこそおもしろさがあり、だからこそクリエイティビティー(創造性)が養われる。

さらに遊びの重要性はその結果ではなく、プロセスにあると思います。

言い換えれば何に成功したかよりも、何に失敗したかが大事なんです。やってみて失敗した。じゃあ次どうしようと考え、また 失敗し、どんどん夢中になる。

つまり「できなかった」が「おもしろさ」につながる。今、そういう本来の遊びが減ってきていると思います。

なぜでしょうか。

社会に許容度がなくなった


子どもの遊びが少なくなった理由の一つとして「遊ぶ場所が減ったからだ」とよく言われます。

でも、昔の子どもたちは遊び場所として大人が用意したところで遊んでいたわけではないんです。空き 地とか、神社の境内とか、路地裏とか、 廃墟とか、本来遊んではいけないようなところでこそ楽しく遊んでいた。

それを大人が見て見ぬふりというか、ある程度許容していたと思うんです。

それが今は、そういうところで子どもたちは遊んではいけなくなった。安全面なども考えてのことですが、子どもの遊びに対する社会の許容度が低くなっていると思います。

そして、ここで遊びなさいと遊び場が与えられたのですが、子どもはかつてのようには遊ばない。なぜなら、公園の遊具で決められた通り遊ぶのは、それ以上おもしろくなりませんから。 公園には禁止事項も多いですし、決められたこと以外の遊び方を始めるとすぐ大人に怒られる。

遊ぶ場所とは言っても子どもが自由に遊べる空間ではないんですね。これでは、自分たちで遊びを考え出すというクリエイティヴなおもしろみが生まれません。

大人のかかわり方は?


では、子どもが自由に遊べるために、 私たちに何ができるでしょうか?

ぼくはよく、子どもたちとのキャンプを開催するのですが、その際、遊び道具も何もない原っぱに行きます。

「ここで 何して遊ぶ?」と子どもたちに聞いても、 初めは何も発想できません。「ボールない?」などと聞いてきますが「ない」と 言って様子を見ていると、そのうち、棒きれを探してきて遊んだり、影踏みしたり、何か自分たちで考えて遊びだします。

そうやって遊び始めるまでぼくは待つわけですが、一般的には待たない大人が多いのではないでしょうか。遊びに来て子どもが遊んでいないと、「○○して遊んだら?」と言ったり、「これで遊びなさい」と遊び道具を出したりしてしまいます。

普段、遊び道具のない遊びに慣れていない子どもは「ここでできる遊びは何かな?」「みんなで楽しめる遊びは何かな?」など色々と考えるので、遊びだすまで時間がかかります。それを待ってあげないということは、自分たちで考える時間を奪うことになります。

大人の効率主義にかかると、「早くしなさい」となるかもしれませんが、子どもには大事な時間なのです。大人のかかわり方として「待つ」姿勢は重要だと思います。

子どもに遊び道具を与えるということは、「これでこうやって遊びなさい」と遊び方を「規制」している面もあるわけです。とりわけ、電子ゲームは大人がプログラムしたものを遊んでいるわけで、 「遊ばされている」とも言えます。自分の工夫を加えて遊びを変えていくということが基本的にはできませんからね。

「結果」を気にする傾向


また、今の大人、親世代は、子どもの遊びの結果や効果を気にする傾向があります。鬼ごっこならうまく逃げられたか、捕まえられたか、縄跳びが何回跳べたか、 勝ち負けのある遊びなら勝ったか負けたか、そこを気にするのです。

鬼ごっこなんて、なかなか捕まえられないからおもしろいんですけどね。

大人が子どもの遊びに結果を求めると、プロセスが大事な遊びが遊びではなくなってしまいます。

特に、効果を気にするのには、社会的な背景もあると考えます。

今の日本は経済優先の社会で、何かをしてもらうためには対価を支払う、何かをしたら対価を求める「交換経済」の発想が意識に浸透しています。交換経済の論理で考えると、 遊びでも教育でも、やった分の効果を求めてしまう。

そして効果が見えないなら 無駄だというふうに考えるのです。

だから、すぐに効果が見えない遊びは、別になくてもいいのでは、となるのでしょう。

また、交換経済の影響という話でいい ますと、消費型の遊びも増えました。たとえば遊園地やテーマパークなどレジャー施設に行くという遊び方です。時間とお金をかけた分だけ楽しもうという発想 ですね。大人のレジャーとして見れば、 それもいいと思います。

でも、子どもの遊びの大事な効用「クリエイティビティーを養う」は得られません。

本来の遊びが必要です


私は、子どもの遊びを社会の鑑として見ています。

子どもの遊びが変わったのは、子どもが変わったからではなく、子どもを取り巻く環境、社会が変わったからだと思います。

でも、経済優先で成長して来た社会も今、変わり目を迎えていると思います。 これからの社会を生きていくためには、 新しい発想が必要です。

決められた枠にとらわれず、子ども自身が自由に発想して遊ぶ。

そういう本来の遊びが必要だと思います。

大人も、子どもの遊びに対して、拙速に結果を求めるのではなく、長 い目でにこにこ笑って見守る姿勢が大切 なのではないでしょうか。

ぜひお子さんをたくさん遊ばせてあげてください。

(まとめ・編集部)

作者情報


杉本厚夫(すぎもとあつお)


1952年生まれ。一般社会法人 子ども未来・スポーツ社会文化研究所代表。子どもの日常生活におけるコミュニケーショ ンの問題を臨床社会学の視点から研究。著書に『「かくれんぼ」 ができない子どもたち』(ミネルヴァ書房刊)などがある。