30年以上に渡り園現場に寄り添い、様々な問題・テーマを取り上げ、保育の道すじを示し続ける保育雑誌「げ・ん・き」から、おススメの特集をご紹介いたします。

※本記事は、2回に分けてお届けいたします。

①:子ども時代とは何か 他

②:科学絵本の大切さ 他 ※この記事



福岡 伸一(青山学院大学教授)

▼科学絵本の大切さ

福音館書店「かがくのとも」創刊50周年記念展覧会「あけてみよう かがくのとびら展」
(20219年・アーツ千代田3331)

───福岡先生は、『かがくのとも』(福音館書店)の創刊50周年を記念した展覧会「あけてみよう かがくのとびら展」(会期2019年8月23日〜9月8日、アーツ千代田3331)の展示監修をされました。

 『かがくのとも』が出始めた頃には私はもう小学生になっていましたけれども、それから読んでいて覚えている絵本がたくさんあります。かこさとしさん、五味太郎さんと有名な作家さんのものはもちろん覚えていますし、『あげは』などの虫の本が多かったこともあって、『かがくのとも』によって育てられたところもあります。

 生物学者になって、作家のような仕事もさせていただくようになってからは、いろんなところで『かがくのとも』の優れた本を紹介させてもらっています。常々、良質な科学絵本の意義と役割を声を大にして言いたかったので、今回の『かがくのとも』創刊50周年の展覧会の監修、協力のお話をいただいた時、喜んでお引き受けしました。

───科学絵本の大切さとはなんでしょうか?

 先程も言ったとおり、子どもには優れた視覚、聴覚、嗅覚が備わっています。しかし、それをどこへ向けてどんなふうに使ったらいいのかは、一人だけではわからない。つまりどこに虫がいるのか、どうやったらその星がきれいに見えるのか、目の凝らし方、耳の澄ませ方、匂いの嗅ぎ方、そういうことを教えてくれるガイド役が必要です。そして、そのガイド役は親でも保育者でも先生でもない、斜めの関係の人が教えてくれるのがいいと私は思っています。

月刊科学絵本『かがくのとも』(福音館書店)の創刊50周年を記念して、科学の面白さを親子で体験できる展示会「あけてみよう かがくのとびら展」(2019年)が開催され、福岡先生は展示内容の監修を行なった。

───「斜めの関係」ですか。

 親や保育者というのは、いわば縦の関係ですね。普段の生活で直接関って援助して導く存在で、その関係にはある種の命令や抑圧がある場合があります。そういう立場ではない存在がいるといいのです。もしかしたら親戚のおじさんかもしれないし、近所の詳しい人なのかもしれません。ただ、現実にはなかなかそのような都合の良い人はいないので、本がその役割を果たしてくれます。そして、就学前の子どもには、字ばかりの本だと難しいので、絵本が適しています。

 例えば、最近の『かがくのとも』で私が優れていると思ったものの一つに『よるのいけ』というものがあります。この絵本の中に出てくる大人と子どもの関係は一見すると親子のように見えるのですが、絵本の中では一言もお父さんとは書いていないんです。キャンプのリーダーのような大人で子どもを誘って夜の池を探検しようと連れて行っているのではと僕には思えました。この関係が先程も言ったように親でも先生でもない斜めの関係の人です。

『よるのいけ』松岡 達英 さく
かがくのとも 2019年9月号

 子どもを子ども扱いせずに対等に扱ってくれる大人と出会って探検に行くという、子どもが最も求めている探検の原型なんですよね。『よるのいけ』は自然や生き物の描写だけでなくその辺もなかなかよく考えられています。

───斜めの関係というと、先生はご自身も翻訳されている『ドリトル先生』シリーズのドリトル先生と少年スタビンズくんを例にして、子どもにとってフェアな関係を持てる人がいることの大切さをおっしゃっています。

 私には現実の世界と本の世界にヒーローが何人かいましたが、ドリトル先生はそのうちの一人です。トーマス・スタビンズという少年が出てくるのは第2巻の『ドリトル先生航海記』からです。ドリトル先生と出会い、助手のような存在になる彼を、みんなは坊やとか「トミー」と呼ぶのですがドリトル先生だけは「スタビンズ君」と大人と同じように呼びます。彼は今までそんなふうに自分に接してくれる大人に出会ったことがありませんでした。ドリトル先生は、また生物にすごく詳しくて、動物の言葉を理解して、動物のお医者さんになっている。自然が好きで勉強したいとおもっていたスタビンズくんは先生に弟子入りして冒険旅行に出る。子どもたちが最も憧れる世界の関わり方を提示してくれている児童文学だと思います。そのことが、これだけ長いあいだ読み続けられた要因でもあると思います。

 子どもはそういう関係の人を求めていて、子ども時代にそういう人と出会える人はすごく幸せだと私は思うんです。どうしても人間関係は垂直方向になりがちですから、依存とか命令とか抑圧とかにさらされてしまいます。そこから逃れるように斜めの関係があって対等に扱われる経験が生きていく上で大事だし、そうしてもらった子どもは今度は誰か別の子どもに対等に接することができる大人になるでしょう。

───子どもの興味関心の対象は多様です。その多様なフィールドでガイド役となってヒントを教えてくれる存在が身近にあるとよいということですね。

 科学絵本にとって大事なこととして、そのガイドとして伝える情報が正しいということです。子どもだからといって、いい加減に媚びた伝え方をしないということ、子どもを子ども扱いしないということが求められます。

 『かがくのとも』が非常に優れている点というのはそのことに妥協がないことです。虫の本だったら虫についてきちんと正確に描いてあるし、働くくるまなら自動車のメカニズムや形なんかも正確に描いてあります。例えばアゲハチョウの幼虫は山椒の葉っぱしか食べませんし、キアゲハの幼虫だったらパセリの葉しか食べないといったように食べ物を限定することによって他の生物との無益な争いが起きないように自分の身を守っている。そういったことがきちんと描かれている。ゴミ収集車であれば、どうやってゴミを収集するのかの内部構造を説明する時、そういったものがすごく正確に描かれています。

 子どもにとっては、物語の絵本のように、フィクションやファンタジーの要素は欠かせませんが、科学絵本には、妥協なく正確に伝えることが、身の回りのさまざまなものにあるメッセージに気づくために必要なことだと思います。

───「絵本」という形態であることの意味は、どのように考えていらっしゃいますか?

 そうですね。本という形は、大事なことの一つだと思っています。パッケージになっている、綴じられているということに意味があります。これは絵本に限らず本や雑誌もそうですが、本としてのたたずまいこそが、最も大事な機能です。

 インターネットというのはいろんなことを一瞬で教えてくれますが、その知識はバラバラな断片になってしまっている。バラバラの知識を素早く検索するには便利ですが、そうすると作家、絵本作家、編集者がその本に込めたメッセージとしての時間軸がズタズタになってしまいます。

 本というのは物理的にページを綴じているだけではなくて、時間の流れがそこに閉じ込められています。それが子どもにとって一番大事なガイダンスになっていますよね。物語がどこから始まり、どう展開して、どう終わるのかという起承転結を作らないと、この世界を物語として把握できない。それを教えてくれるのが絵本や本なのだと思います。

▼動的平衡から読み解く

───子育てや保育は、ただの教育や能力開発のプログラムではありません。生活と遊び、人と人が関わり営むプロセスそのものを保育だと捉える人の多くは、福岡先生が提唱される「動的平衡」という考えに共感を覚えるでしょう。

  生命の現象としての「子育てや保育」「子どもと大人と社会の育ち」を、動的平衡の視点から捉え直すと、どのように読み解けるでしょうか?

 まず動的平衡について簡単に説明させていただきます。

 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられています。身体のあらゆる組織や細胞の中身は常に作り変えられ、更新され続けていく。だから、私たちの身体は分子的な実体としては、一年前の自分とはまったく別物になっています。私たちは久しぶりに会った人に、「どうも、お久しぶりですね。全然、おかわりありませんね」なんて言いますが、それは生物学的には間違っていまして、本当なら「おかわりありまくりですね」と言わなくてはならないほどです。

 ひとつの細胞とその周囲の細胞の関係は、とても不思議です。互いに、情報・エネルギーを交換することで影響し合っています。私たちの身体は、一年前とはすべてが新しくなっている、分子単位でみても細胞単位でみてもまったく違うもの、それでも、影響し合うという「関係性」、「つながり」だけは変わらない。細胞は変わっているのに、細胞同士がつながりながら、全体としてはバランスを取っているわけです。

 このことを、自身の研究から「生命は機械ではない。生命というのは流れだ」と示したのが、ドイツ生まれの米国の科学者ルドルフ・シェーンハイマーでした。1930年代のことです。彼は「身体構成成分の動的な状態」と説明しましたが、私はこの概念をさらに拡張して、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡」と言っています。

───動的平衡の概念は、生命とは何か、の考えを大きく拡張してくれます。それと同時に、人間社会そのものの捉え方にも影響があります。

 動的平衡というのは絶え間なく動きながらバランスを取ることです。一番大事なのはそれがどこで行われているかという場所です。第一義的には生命現象という場所で絶えず分解と構成が行われつつ動きの中でバランスがとれている、それを生命だと私は定義したい。

 この動的平衡は、組織論として拡張してもらってもいいのかもしれません。その場合には行われている場所は個体の生命ではなく、生命と生命が出会うところに動的平衡が成り立つわけですよね。例えばその一つは保育園や幼稚園になるのでしょう。

 その場所に子どもたちが毎日通ってくる理由は何でしょうか。それは決して、カリキュラムがあって、何かを教えてもらえたり、スキルを身につけたりするためではないと思います。それだけであれば、わざわざその場所に行かなくても、ネット中継すれば済むことになってしまいます。

 これは実は大学や高校でも同じことです。ただ先生がスキルや知識を学生に教えるだけであればキャンパスに来なくても、自分でネットや本で勉強したらいいんです。じゃあ、どうして大学という場所が必要なのか、保育園という場所が必要なのか。

 それはその場所でしか行われないインタラクション(相互作用)がその場限りに生まれるからなんです。それが動的平衡ということです。

その場所、その時のインタラクション

▼その場所、その時のインタラクション

───単体としての存在ではなく、複数による相互作用、その現象こそが大切ということですね。

 動的平衡の一番大事なことは、構成して分解しながら絶え間なく動いているにも関わらず平衡が保たれている理由、つまりそこにある種の相補的な関係がいつも保たれていることです。

 私はこのことを、よくジグソーパズルのピースに例えます。互いに他を支え合いながら、他を律し合っているような関係があって、そのピースは絶えず交換されているんですが、ピースのその相補的な形が保たれている限りにおいてはどんなに変わっても絵柄はそんなに変わらずにいられる状態が動的平衡というものなんです。

 そういう場所を提供するものとして学校や保育園を見た時、子どもはその場所に入るとはじめてまわりとの関係が生まれて、自分がどういうピースであるか、つまり自分の凸凹がわかる。それは人間関係だけではなくて、その保育園にある絵本、園庭にいた虫、転がっていた石と出会う。そこでその時だけ起こったことがその動的平衡を支えているのです。そういうものと出会うためにその場所に行く。園に来ると、いろんな子どもが来て、笑いが起きたりケンカが起きたりするでしょうけど、そのインタラクション、相補性がその子の場所を作っていくわけです。

 だから先生や保育者が子どもに何かを与えようとしなくても、そこに行けば子どもは何らかのもの、メッセージを受け取っていることを意味します。その場所がいつも存在しているということが動的平衡を支える一番大事なことだと私は思います。  もちろん、我々生命体はジグソーパズルのピースではあるといっても、カチッと固いカードボードのようなものではなく、もっと柔らかいものです。押し合いへし合いしながらまわりの環境に応じて自分も可変的に相補性を発揮して動的平衡の一員であることをその時限りで作っています。

▼「一人の世界」を損なわないで

───その場その場で新しいことが起こり、出会っていく子ども時代。それはAIやプログラム的なものでは出会えないことですね。


 自分が研究者になってわかったことのほとんどは、昆虫少年時代にすでに知っていたことでした。それは一人で虫と向き合って学んだことです。蝶々のきれいさとか、変化の不思議とか、虫の精妙さ、そういうものから学んだことが、結局は研究者になってから学んだことと基本的に同じでした。自然というのは一筋縄ではいかないし、なかなか本当の姿を見せてくれない、こうじゃないかと考えて実験しても大体は思ったようにはならない、ある種の諦観をもってしか自然と接することはできないというのは昆虫少年時代にすでに知っていたことだったんです。
 人生の一番大事な時期に、一回限りの貴重な経験を与える場所として保育園や幼稚園がある。そして、それを与えてくれるのは場所や環境、関係性なので、大人が何かを教え込もうとしたり、特別に何かをしたりする必要はないということです。むしろそうした出会いやインタラクションを損なってしまうようなことをしないことの方が大切だと思います。


───先生のお話には、個としての子どもの感性へのゆるぎない信頼がありますね。


 まず、私自身の人生によるものが大きいと思います。ただ、保育や教育においては、集団や社会性というものが強調されがちですが、私は生物学が専門なので、個、個体の歴史というのにフォーカスを当てたいと思っています。それは、子どもというのは、一人いる時間、孤独な時こそ一番育っている、ということです。
 子どもは一人で何をしているかというと、世界の不思議さに気がついているんです。空想したり、調べたり、その子なりの実験をしたり、哲学している時間。その時間が長ければ長いほどいろんな気づきが大きい。だからこそ人間には長い子ども時代が用意されていて、その結果人間の社会が豊かになったと考えたいのです。
 個体としての人間の成長過程の中で、孤独な時間として子ども時代があるという捉え方も必要です。そして、個としての自分、孤独な自分と個としての大人が1対1で交流するという、先程言ったような斜めの関係が近くにあること。何か共通の目的のために対等であるような、いろいろ教えてくれもする導き手ではあるのですが、フェアに接してくれる大人という存在が、孤独である少年少女には必要だと私は思っています。
 もちろん、当てはまらない人もいるのかもしれません。ただ、乳幼児期の自分の感覚として残っている記憶というのが原体験になり、その人を作っていく。そういう意味ではその時期に世界とどう接するかということがその人を決めていくのではないかと私は思います。


───ありがとうございました。

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福岡 伸一 ふくおかしんいち 1959年東京生まれ。米ハーバード大学医学部フェロー、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授。生物学者。『生物と無生物のあいだ』(サントリー学芸賞受賞)、『動的平衡』ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著作多数。他に『フェルメール 光の王国』、『ナチュラリスト―生命を愛でる人』、訳書に『ドリトル先生航海記』『ガラパゴス』などがある。