「母の友」2019年5月号の記事を転載してお届けします。「母の友」は、園や家庭で、子どもたちとの日々がもっと楽しくなるような「子育てのヒント」と「絵本の魅力」を毎月お伝えする雑誌です。
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愛着・アタッチメントってなに?
「帰ることが できる場所」になる
神奈川県にある“小さな幼稚園”「りんごの木子どもクラプ」を、代表の柴田愛子さんが始めたのは1982年のことでした。
その後、卒園児たちは頻繁に園を訪れ、柴田さんに会いに来るそうです。
その「心のくっつき」はどのように生まれるのでしょうか。
柴田さんに、アタッチメント特集の「実践編」としてお話を聞かせてください、とお願いすると「いや、私、研究者じゃないからさ。
子どもたちと心のつながりは感じているけど、それがアタッチメントなのかどうかはわかんない。
でも、まあ、これまでに私が『子どもから教えてもらったこと」なら話せると思うけど……」と。
ぜひそれを教えてください!
卒園児が訪ねてくる
卒園した子たちで訪ねてくるのは、最近は中高生が多いかな。
ある子に「なんで私のところに来るわけ?」って聞いたら、「友達に相談できるんだけど、肝心なことは大人の意見も聞きたいんだよね」って言ってた。
親子が「縦の関係」だとすれば、私と彼らは「ななめの関係」なんだろうね。
親には相談しづらいことも言いやすいみたい。
子どもって、いくつになっても親が喜んでくれることが一番うれしいの。
だから心配させたくないわけよ。
あるとき、高校1年の男の子から「行っていいか」って電話があった。
「そりゃ、もちろん」と答えて待っていたら、もう、見るからに落ち込んでいるわけよ。
言葉も聞き取れないくらい小さい声なの。
で「よく来たね、久しぶり」なんて言って、世間話をしていたら、その子がぽつぽつと語り出したのよ。
念願の高校に受かって、念願の部活に入ることができた。
親も大喜びだった。
でもね、そこでいじめにあっちゃった。
最近のいじめってすごいのね。
本当に意気消沈してた。
思わず「部活に命かけないでくれる?」って言っちゃった。
そしたらその子がじょう舌になってきて、いろいろ話してくれた。
で「部活、やめてもいいと思う?」って言うわけよ。
「思うよ。自分をボロボロにしてまで行くとこじゃない」って言ったのね。
そしたら「そっか。だよね」と言って帰って行った。
何日か後、明るい顔の彼に会った。 「お、いい顔し てんじゃん?」って言ったら、「部活、やめてきた」って。
説明できないから泣いている
不安なことがあったとき、さびしいとき、やっぱり、子どもには守ってくれる大人が必要なのよね。
思春期の子たちだってそうなんだけど、幼い子たちはもっとよ。
何かがあったとき「帰ることができる場所」を持っているってすごく重要なことなの。
そこで腰を落ち着けて、自分を取り戻して、また出ていく。
小さいうちは、大人からすれば、ちょっとしたことでもそうなのよ。
たとえば、子ども同士が ケンカして、一人がわーって泣いて大人のほうに来るじゃない?
そういうとき、大人はつい「解説」をしたくなっちゃう。
「さっきから見てたけどね、あんたがあんなことをするからこうなるんだ」って。
でもね、子どもは「解説」をしてほしくて大人のところに来るわけじゃないの。
いやなことがあって悲しい気持ちになって来てんだから、まずその気持ちを受け止めてほしいわけよ。
「けんかになっちゃったねえ、困ったねえ」。
そうすると、しばらく泣いた後、また、自分から、もといた場所に戻っていく。
この間、普段は元気な五歳の子がね、朝からしょんぼりして一人でいるわけ。
それで、私はしばらくただ横にいたの。
子どもが落ち込んでいるときは、「どうした? 何があった?」とあまり踏み込んで質問しないようにしています。
私は「子どもの心に寄り添う」ことを大事にしたいと思っているんだけど、「寄り添う」というのは、子どもの心の状況を 根掘り葉掘り聞き出して解明し、解決してあげることではない、と思っているのね。
それで、しばらく隣にいたら、その子が突然、「うちのばあちゃんがさ……」って。
祖母に理不尽に怒られたことについて、ばーっと一気に言うわけ。
こっちは「うわあ、それはいやだったねえ」と言いながら、うんうん、と聞いていた。
その子は全部はき出したら、けろっとして、みんなのところに遊びに行きました。
生きていれば、いろいろありますよ。
それは幼い子どもも一緒なの。
何かあったとき、ああだこうだ言わないで、ただ受け止めてくれる人が必要なんだと思う。
だって「どうしたの?」って聞かれたってさ、うまく言葉で説明できないから泣いてるのよ。 子どもが泣いていたら、「泣けちゃうよねえ」 と言って、まずは落ちつくまで横にいてあげたらいいと思う。
子どもは大人に、原因を解明して事態を打開してほしい、と思っていないことの方が多いんじゃないかと思うのね。
たとえば、別の子におもちゃを奪われて、ぷんすか怒っている子がいる。
「そりゃ怒るよ!」と言って気持ちを受け止めてあげれば「な、ひどいだろー!」なんて言って、自分で戻っていってその子と話して解決しようとする。
私は基本的には、なにか子ども同士でトラブルが起きたときは、困っている本人たちが折り合いをつけて、その子たち同士で解決しないといけないんじゃないかな、と思っています。
大人があれこれ指図して、見かけだけ解決したふうになっても、やっぱり、子どもの心の中にはもやもやが残っちゃうもの。
あるとき、4、5歳の子どもたちと話していて、「あのさ、 みんな、よく泣くじゃん? 悲しい気持ちがおさまって、泣き止むのはどういうタイミングなの?」って聞いたことがあ る。
そしたら、ある子がこう言ったの、友達に「あそぼ」っ て言われたときだって。
たしかに、落ち込んでいる子がいると、他の子がよく「あそぼ」って声をかけてあげてるのね。
ああ、そうか、そうやって子ども同士で助け合っているんだな、って思いました。
お母さんが、ありのままの自分でいられる場所
りんごの木に思春期の子が訪ねて来るのは「あそこでは説教されないから」、そう思ってなんじゃないかな。
不登校になった子どもたちも来るよ。
「おつかれさん、学校ってたいへんだよね。よかったら、しばらく保育手伝う?」なんて言っ たりして。
実際、手伝ってくれる子もいるの。
で、数か月とか、しばらくここにいて、やがて落ち着いて、自分から出ていく。
高校をやめて、通信で学んで、大学に行った子もいた。
自分が自分らしく生きることのできる場所、時間って本当に大事だと思う。
それがあるから、自分で考える力、自分で行動する力がよみがえってくるんだと思う。
そして、ありのままの自分でいられる場所が必要なのは、子どもだけじゃないの、お母さんたちもそうなのよ。
むかえにきたお母さんがしょんぼりしている。
「最近どうですか?」とさりげなく聞くと「あの……ちょっと時間あります?」。
「ありますよ!」ってね。
お母さんたちもたぶん私に的確な助言を求めているわけじゃないと思うの。
今抱えている、ありのままの思いを聞いてくれる人が必要なわけですよ。
私は親子の間には「見えないへその緒」がずっとあると思っているの。
園は、数年暮らせば、さようなら、じゃない?
でも、親子関係はずっと続いていく。
子どもがすこやかに育っていくためには、親子関係が良好であることがすごく重要だと思っているのね。
親子ってやっぱり特別な関係だから、大変なこともあるよ。
「見えないへその緒」にコレステロールがたまらないよう、自分にできることをしていきたいな、と思っています。
たぶん、そういうこと、かつては地域でやっていたんだろうと思うの。
近所の人が「どうした?元気ないな?」って声をかけて。
でも、そういうおせっかいがなくなっちゃったからね。
苦しいとき「自分一人でなんとかしなくちゃいけない」っていう状態は本当にきついよ。
私だって、一人きりだったら、受け止めきれないと思う。
自分ができているのは、りんごの木の仲間がいるおかげなの。
叱るときは叱ります
よく勘違いされちゃうんだけど、「子どもの心に寄り添う」というのは、叱らないことではないのね。
まず、私は子どもも一人の人間だと思っています。
もちろん大人と子どもの違いはあるよ。
体格も腕力も違う。
語彙や知識も大人のほうが多いに決まっている。
それはそう。
でも、魂の部分では一緒なんじゃないかって思っているの。
人にしてもらって、うれしいこと、嫌なこと。
感情面では、大人も子どもも一緒なんじゃないかって。
だから、子どもも一人の人間なんだけど、私もまた一人の人間だから、「それはないよ!」って思ったときはバシッと言う。
私は、我慢して子どもを奉っているわけでは全くないのね。
とはいえ、基本的には、子ども自身がやりたいと思う行動は「成長」に関係があると思っている。
たとえばある年齢の子はスイッチを何度もぱちぱち押したがるけど、自分ができるようになったばかりの「指で押す」という行為を試してみたいのよね。
子どもの主体的な行動は基本的には応援してあげたいと思っている。
だから、だいたいのことはやればいいじゃん、と思っているけど、私が烈火のごとく怒ることもある。
たとえば、命の危険を伴うことをしたとき。
火をつける、とかね。
そして誰かのものだということを知りながら取ってしまう、つまり、盗む、ということをし たとき。
それから、障害であるとか、人には 自分の力ではどうにもできない人との違いがそれぞれある。
それを 差別したり、侮辱する行為をしたとき。
そういうときは本当に怒ります。
毎度、後から反省するくらい激怒しちゃうの。
あるとき、なんで、こんなに怒ってしまうんだろう? と考えた。
そしたら私自身にとって、とても大事なことだからって気がついた。
たぶん、人によって大事なことは違うんだと思う。
以前、りんごの木にいた保育者は本がものすごく好きだったの。
だから、本を踏むのは許せない、と言って子どもに怒ったことがありました。
そして大人の心の底から出ている言葉って、子どもも「わかる」のよね。
一緒に暮らしている人が大事にしていることをないがしろにするのはやめとこうって。
こうして生活の中で「ルール」が生まれていく。
少し話がそれるけど、私は、ルールっ てみんなが気持ちよく暮らすためにあるのであって、みんなをただ縛るためにあるものではない、と思っているの。
そういう意味で、ルールを守る子じゃなくて、みんなが気持ちよく暮らすためのルールを作れる子を育てたい。
一緒にいる人の大切なこと
叱る、と言えば、以前、こんなことがあったな。
Yって6歳の男の子がいたの。
みんなで野球遊びをしているんだけど、他の子に怒鳴りちらすのね。
なんだか横で見ていても、全然楽しい感じじゃない。
みんな、こんなふうに言われてよくやっているなあと思ったので、「ねえ、Y、なんでそんなに怒鳴るの?いやな気持ちになるんだけど」って率直に言っちゃった。
そしたら、Yがみるみる硬直していったの。
その表情を見て、あ、この子、無意識だったんだと思った。
そしてYは「だって、俺、負けたくないんだもん」って言ったの。
そうだ、スポーツってそういうものだった。
楽しいだけじゃなくて、勝たないといけないのだと私自身がはっとしました。
それでみんなに厳しく指示を出していたんだ…。
すると別の男の子Dくんが「ねえ、Y、ぼくをチームにいれてくれる?」って言ったの。
Yに悪意がないこと、Yが負けたくない気持ちだったことが理解できたからだと思う。
私は「ねえ、Y、もう怒鳴らない?」って聞いたの。
そしたらYは「怒鳴らないようにがんばるけど……怒鳴るかもしれない」って (笑)。
6歳児が自分の心を見つめているわけですよ。
その後、 他の子たちも加わって野球遊びが再開されました。 Yはときどき声を荒げていたけど、他の子たちをこわがらせないようにがんばっていた。
この話、続きがあってね。
Yが大きくなった中学生のとき、 同期が集まったの。
「(他の子は)みんな元気にやってる?」って聞いてくるもんだから、当時、一緒に遊んでいたKちゃんがね、家から出られないんだって言ったの。
Kちゃん、その頃、学校に通えなくなっちゃっていたの。
そしたらYが 「あ、そうなの?ちょっと電話かして」と言って、いきなりKちゃんの家に電話をかけ始めたの。
で、電話口に出たK ちゃんにYが言った言葉は「遊ぼうぜ」。
そしたらKちゃん、 家にこもって数か月で初めて家の外に出られた。
それでKちゃんはYの家に行って当時の仲間3人に4時間にわたって気持ちをはきだしたんだって。
Kちゃん、結局、学校は通えなかったけど、その後自分で通信で勉強して、行きたい大学に 入ったの。
子ども同士が大きくなっても、そういう関係でいられるのは、たぶん幼い頃、意識以前のところでなれ親しんだ心地よさみたいなものを感じるからだと私は思う。
「自分」というものが出来上がって、自立して生きる以前の段階を共に過ごした人は、やっぱり特別な存在なんじゃないかな。
大人も、子ども同士もそうよ。
私、保育園とか幼稚園とかこども園っていうのは、その子たちのふるさとを作っているんだと思っているのね。
何かあったときに「帰ることのできる場所」。
たとえ、引っ越しとかで、地理的な距離は遠くなってしまったとしても、自分と心のつながりがある友達や大人がこの世界のどこかにたしかにいる。 そう思えることって、生きていく上で大きな意味があると思うのよ。
(まとめ・編集部)
柴田愛子(しばたあいこ)
1948年東京都生まれ。保育者。りんごの木子どもクラブ代表。子育てに関する著書に『こどものみかた春 夏秋冬』(福音館書店)、『それって保育の常識ですか」(すずき出版)などがある。絵本『けんかのきもち』(伊藤秀男絵、ポプラ社)は第7回(2001年)日本絵本大賞受賞。