30年以上に渡り園現場に寄り添い、様々な問題・テーマを取り上げ、保育の道すじを示し続ける保育雑誌「げ・ん・き」から、おススメの特集をご紹介いたします。

※本記事は、2回に分けてお届けいたします。

①:「子育て支援」の環境づくり 【 子育て支援の意義と目的 】

①:「子育て支援」の環境づくり 【 子育て支援の意義と目的 】 ※この記事



対 談
汐見 稔幸(東京大学名誉教授)
小西 貴士(森の案内人・写真家)

●生活=ライフ(Life)の3つの意味

小西 このことは「生活体験」という言葉にも言えるかもしれません。保育で「生活の体験を大切にしよう」といった時に、具体的な姿はどういうことになるでしょうか。ただ衛生的な生活習慣を獲得するとか、食べる寝るを充実させるとか、野菜を自分たちで栽培して調理して食べるといったことだけでしょうか。

汐見 生活という言葉は便利に使われていますが、実はあまりきちんと定義されていませんよね。

 「生活」の元の言葉は「ライフ(Life)」です。これは大正時代頃から盛んに使われるようになってきました。そこから「ライフイズム(Lifeism)」という言葉ができて、どう日本語に訳すかとなったときに、教育者は生活主義と訳し、一部の哲学者は生命主義と訳しました。つまり、生命と生活という言葉は元々同じ言葉なのです。

 「ライフ(Life)」の意味が日本語ではうまく翻訳されていないのですが、実は3つの意味があります。1つ目は命そのもの、生命を保持すること。そして2つ目は、その命をどう維持し輝かせるか、毎日生命を輝かせるための営み、日々の生活です。そして、3つ目はその営みを続けていくことで生命の物語が紡がれていく、その物語もLifeです。つまり人生という意味です。

 その意味から、生活を豊かにするとはどういうことになるか、ですね。生命という視点で見ると、生命をもらった人の唯一の責務はその命を無駄にしないでできるだけ輝かせることです。そして、砂漠の真ん中で生まれた子も、高層ビルに囲まれて生まれた子も、それぞれが与えられた条件の中で可能な限りその命を輝かせる、生まれてきてよかったなぁと感じたり、生きていくことの喜びを感じたりする営みを日々味わうことです。そうした日々を応援して実現できるようにすることが周りの大人の責務です。そして、命を輝かせるために、日々おもしろいなぁ、不思議だなぁという生命そのものに近いところで働く感情が揺り動いているか、どうか。自分が主体になって物語を作っているかどうか。そのためには自分でやりたいことを決めなきゃいけないし、自分で失敗もしなきゃいけない。そうやって毎日を積み重ねていくことで豊かな人生となっていきます。

 生活というのは、これら全てを指している言葉なんです。命を守り、命を輝かせ、豊かなその子しかつくれない命の物語をつくる、それが生活=ライフ(Life)です。

 乳幼児期にはその段階に合った時間の流れがあり、乳幼児らしい喜びを保障する毎日を送るようにする。その毎日の営みが、親も含めて、その子どもの人生となっていくわけです。だから私たちも、命、営み、人生の3つをいつも串刺しにして捉えていくことが大事だと思います。

 たとえばピッとリモコン押したらすぐにできてしまうことがたくさんある、さっきいった適応圏の脳、つまり適応脳を使えばいいわけです。でもときどきその脳を使わないで、自分で一度全部作ってみる。もう一つの世界像を、自前でつくる脳を使うわけです。そのためには、どうやったらできるか一生懸命考えて工夫する、人に聞く、相談する、道具や材料を探す…ということをしなければならない。それってすごく面倒なんだけれども、出来上がった時には「これを自分で作ることができたんだ」と子どもの命が喜びますよね。世界の構造に直接触れてつくったわけです。生命はそうすると活性化する。その活性化をすることが、本当の意味での「ライフイズム(Lifeism)」です。

 短期的な効果や結果だけを求めるのであれば、リモコン操作の世界ですみます。けれど、それでは「やっとできた」「うまくいかなかった、悔しい」という感情の動きが脳の中に残っていかないですよね。感情は意図とか試しとかカケとかのプロセスを大事にする心の営みの中で豊かに活性化するわけで、その意図とか試しとかカケとかがない「適応圏」の脳だけを使っても命は喜ばない。試行錯誤しながらでも「おもしろいな」と言えるような生活を送らないと「生きている」という手応えや喜びを感じるのは少ないと思うんです。

●私の意味と社会の意味

小西 ここまでのお話を聞いていると、体験の意味は私たち人が関わるすべてにあるような気がしてきます。室内の空気であろうと、お風呂の水であろうと、それらを通して関わりが生まれた時にリアリティや命の輝きにつながるような感情の動き、周りの人と共有したい感情の動きが生まれてくると感じました。

 私たちは昆虫を捕まえて観察することは一般的に自然体験として扱い、布巾を絞ってテーブルを拭くことは生活体験として扱うというように、体験を分けて整理しようとしますが、じゃあ屋根から落ちてくる雨垂れがシャベルにあたって跳ねているのを見ているという体験は何なのか?自然体験とは言わなくても体験としての意味はあるわけですよね。

 少し話がズレるかもしれませんが、園の畑に植わっているトマトは植物として見ればもちろん自然環境として理解できるけれども、ある意図を持って人がそこに配置をしていることを考えれば社会的な環境として理解する側面の方が大きいような気がしてきます。自分たちがしている行為や活動にはっきりとした意味を見出しやすい、区別をして名前をつけやすい、そういうものは価値を定めやすい。でも一方で、はっきりしないものにも意味があったり、捉え方が変われば区別が変わったりするということがあります。私たちが自然体験と呼んでいる体験も別の体験になりそうだし、何体験と呼んでいいかわからないような体験も自然体験の側面に見出せそうな気もします。

汐見 そう考えていくと、自然体験というのを別の形で定義できてきそうですね。

 先ほど畑で作られているトマトを見て、そのトマトが作られているという一種の社会的なあり方を意味と捉えていますよね。私の言い方をすると、それは意味ではなくて語義なんです。一般的にトマトは畑でこんなふうに育てられるという社会が作っている意味、辞書に書いてある意味です。

 でも、人間は、ああいいなあ、不思議だなあ、と価値判断をするときに感情が伴っていますよね。その時に頭の中では、語義の世界に個人的な価値付加をしているわけです。語義の周辺に感情をまぶして語義を一人称化しているというか。そうしてできるのが意味だと思う。どこかで個人的な一人称的な意味の世界をつくりだしているのが人間の心の営みの創造性だと思うんです。教育という言葉の「語義」の方は、三人称的で、どこでも通じる、たとえば「人を意図的に育てること」のようなものになるのですが、教育という語の「意味」の方は、個人的な体験で得た教育という語義への価値付けですよね。たとえば「それは人次第ですね」とか「ない方がいいものです」などというのが「意味」。

 意味というのは、英語で言えばセンスですが、その名の通り自分が感じて作るものです。一人称的な私にとっての意味と三人称的な社会においての意味つまり語義があって、三人称的な意味つまり語義をたくさん知っている子が優等生なんですよね。一方で、一人称的な意味がたくさんある人は社会の決められた世界だけではないところで生きていて、つねに世界の意味を創造しているわけで、それだけ生きていて新鮮なんだと思います。うまく自分を活かすと、芸術家なんかになるのかもしれない。

小西 意味と語義…。

汐見 たとえば「お母さんという言葉の意味は何ですか?」聞かれた時に、「子どもを産み育てる女性のこと」と辞書なんかには書いてありますが、それが語義にあたります。「あなたにとってお母さんという言葉はどういう意味ですか?」と聞かれたら、そんな風には答えないですよね。「私にとって母親ですか。複雑な関係ですねえ」とか、時には「もう感謝しかないです」とかいろんな感情を含んだ言葉が湧いてきます。それがその人にとっての母親という語の「意味」なんです。

 全ての言葉は社会的な意味すなわち語義を基本にして、そこに私の意味をまぶして使っているわけです。その私の意味を豊かにする人が自分も大事にするし、自分の感じ方を大事にする、自分の命の営みを大事にしているということにつながっていると思うんです。

 社会が作ったものをコアに、自分の感じている世界に形を与える、社会でまみれているような感じ方を1回リフレッシュさせて自分で感じる、自分で意味を作っていくと、自然体験というものは、ものすごく広がって捉えることができるようになりますよね。

 都会の保育園でも、園庭でちょっとした木陰に入ると気持ちがいい、プランターをひっくり返してダンゴムシを見つけて喜ぶ、自分なりにああいいなあと思えること、それも自然体験だよねっていうふうに。私自身が意味をつくっていけばいいっていうふうなことに徹底して拘らせれば、それは広い意味での自然体験になると思います。もちろん、それだけでいいというわけではありませんが。

小西 なるほど。実際、現場で保育者が体験に関していろんな創意工夫を重ねていることってそういうことなんですね。子どもたちと一緒に園庭に植物を植えて観察する、触れる、食べるなど、いろんな体験をすること、その体験ひとつひとつにそれぞれの保育者が意味をまぶして実践をしている。そこに自分なりの意味を見出せれば、あらゆる体験の中に自然や生命との関わりを見出してゆくことはできるわけですもんね。そんなふうに考えられれば、この八ヶ岳南麓の人為が薄い豊かな自然環境での自然体験も確かにあって、一方で自分のごく身近な環境での自然体験もあって、そのグラデーションをすごく納得できるような気がします。

 ただ、自分なりの意味を見出すことは、なかなか難しいという環境もあるでしょうね。

 一人称的な意味を見出していくそのセンスに大きく関係するのは、先ほど汐見先生がおっしゃった「ライフ」への意識なのではないでしょうか。たとえば、保育における環境論も、最初は育ちの主体である子どもの周りに存在するものを環境と捉え思いを馳せるんだけど、詰めて話していくとその子どもの内側にあるものもたとえば体内環境と表現したりするじゃないかということに気づきます。つまり、子どもの内側も環境だと。環境が主体の周りに存在するものだとすれば、じゃあその主体は何なんだという話になる。そうすると、やっぱり環境に対して主体となる中心は「命」だろうと。命の周りに存在するものが環境。だから体内環境も、やっぱり環境。そういう見出し方は、やっぱり先ほど汐見先生がおっしゃられた「命を守り、命を輝かせ、豊かな人生をおくる、それがライフ」だという意識が支えるのではないかと感じました。

●学問の細分化と統合

小西 実は今、とある県の幼児期における自然体験活動を推進する検討委員会の委員をしています。そこでは、自然体験活動について考えることが、各委員のミッションです。でも、今日ここまで汐見先生とお話ししてきたように、まずは子どもにとって体験とは何なのかという前段の話がとても大切だと個人的には感じていて、でも政策立案のような場でとてもそこから論じ合うことは難しいという現状があります。ですから私の手元にある資料では、伝統文化体験、スポーツ体験、農業体験、林業体験など数々の体験活動が区分けされていて、その中の一つに自然体験活動という項目が設けられています。今日のこの場での話では、体験をバラバラに分けることは難しいし、子どもたちはその生活のなかで、一人称的な自分の意味をいろんなところに見出しながら体験を重ねて命を輝かせているんだよね、ということでした。でも、僕自身が、自然体験活動といえば、森の中で「五感」を使った活動を行うことに代表される、知識獲得体験活動もしくは情動体験であるという区分けされた自然体験活動というものの中で動かざるをえないような違和感がどうしてもあるのです…。

汐見 それと同じようなことは、教育全体にも言えます。学問というのは、いつも細かく細かく分化されていきます。若い人は、いまこれが最先端で流行だからここの分野を研究するという方向にいきますよね。でも、全体の学問がどう枝別れして現在のようになってきたのか、最初に何をテーマにしていたものが少しずつ専門性を分けていこうとなったのかをきちんと理解しておくこと、つまり全体を把握しておくことはとても大事なことなんです。

 人間はどういう動物なのだろうか、人間というのはどうやって世の中の情報を処理しているのだろうか、人間の幸せって何だろうか、などという非常に大きな全体的なテーマだったものが現在はものすごく部分化されていっている。学問はすごく細かい蛸壺に分かれているのです。そうすると、自分はなんのためにこの学問をやっているのか深いところはわからない、全体が見えてないということになってしまう。

 学問の発展はある意味では蛸壺化の法則があてはまるのですが、それと同時に、逆のこともしていかなきゃいけないことになります。これとこれとは本来つながっている、これはこういうことがあって今は分かれているだけで本当はここまで戻らなきゃいけないという、統合の論理を作っていかないと、人間は全体を見失ってしまいます。つまり迷路にドンドン入って行くだけで俯瞰できなくなってしまう。大人になってくると、いろんなことを分類して、理解していく。でもそれで何がわかっているかというと、部分をたくさん知っているだけで、実は全体をつないでいる一つのものは何かがわかっていないということになりかねません。

 それは命かもしれない、あるいはその命というものを宿して、その命の中で一生懸命世界と関わっている身体なのかもしれない。そういうものの喜びだとか、そういうものの大事さに戻ってくる、部分だけがわかっても全体としてはわかったことにならないのです。

小西 部分と全体の関係性。1匹のアリと広がる森との関係性ですね。決して全体性への動きを強めようという単純な話ではないですね。

 乳幼児期の体験は、当たり前だけれど初期体験が多い。その初期体験が豊かであるというのは、言い換えれば決してポジティブな体験だけじゃなくて、ネガティブなものもそこには含まれるということです。痛いほど寒いとか。だからこそ、全体性賛美の方ばかりでなくて、ちゃんと一つひとつのところで立ち止まって掘り下げてゆくことも大切だということですよね。この体験によってどんなことが生まれているのか、というように。全体性の重要さにあまりとらわれてしまうと、日々をただ何となく過ごしていればいいとなってしまう可能性があります。極端に言えば、ただ森に行っていればいいと。

汐見 人の生活という視点で見ると、もちろん、細分化してこれだけできて他はできないというよりも、全体的でゆるやかな感じで生活を過ごしていくことのほうがいいと思います。細分化していくことで精緻になってある面で効果は上がりますが、全体の意味が不明になる落とし穴もあります。一方でおっしゃるように全体性にこだわりすぎるとおかしなことにもなります。

 たとえば「元気に楽しくワァーっと遊んでいたらそれでいいんですよ」というのは、間違っているわけではないとは思います。しかし、瞬間的な興奮の喜びだけを繰り返していて、世界についてもっと深く知りたい、生活の基盤について関心が湧かない、というのでは、子どもの命を活性化させているとは言えないと思うんです。地域でいっぱい遊んで育った戦前の子どもたちが、あの戦争に反対できず、あちこちで戦争行為をさせられたということはしっかり考えておかねばならないことだと思います。森で遊んでいればいいという単純なことではないということですね。

 やっぱり、部分への志向と全体への志向の両方を持ってないと、本当の意味での教育にならないんだと思うんです。

小西 畑でうまくいってない(うね)には、それにピッタリの理論の本があるんです。放ったらかしにしておいてこんなおもしろくなったというところには、またそれにピッタリとくる詩集があったりします。畑を始めると、たいていは理論と共に掘り下げてゆくことに夢中になる。疑問やうまくゆかないことに絞り込んでまた掘り下げて対処してゆく。そこは際限のない面白さがあると思います。そんな面白さの中で、いや、そんな面白さに気づいたからこそかな、うまくゆかないことも含めて全体を観察することで、「野菜のことは野菜のこと。子どものことは子どものこと」から「野菜のことと子どものことがつながってくる」ようになってくる。なんだかそんなイメージを浮かべてしまいました。

汐見 おもしろいですねえ。まだまだ、こういう森や野に身を置いて考えてみるとおもしろいことがありそうですね。また別のテーマで話しましょう。

写真=小西貴士(汐見氏、小西氏の写真以外)

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