30年以上に渡り園現場に寄り添い、様々な問題・テーマを取り上げ、保育の道すじを示し続ける保育雑誌「げ・ん・き」から、おススメの特集をご紹介いたします。

※本記事は、2回に分けてお届けいたします。

①:「子育て支援」の環境づくり 【 子育て支援の意義と目的 】 ※この記事

②:「子育て支援」の環境づくり 【 子育て支援の意義と目的 】



対 談
汐見 稔幸(東京大学名誉教授)
小西 貴士(森の案内人・写真家)

小西 子どもにはさまざまな体験をしてほしい。今の日本では多くの大人が考えることです。特に今の子育てにおいては、多様な体験の機会として、習い事などがたくさん用意されています。その習い事も、学力の向上を期待するものやスポーツや音楽などといった、何かができるようになることを目的とするものばかりでなく、自然体験や創作体験なども重視されるようになってきました。たとえば、自然体験活動は、僕自身が身を投じて20年近くになる分野ですが、ニーズが高まり続けているように思います。

汐見 大人が子どもたちに自然体験をさせたいと自然の中に連れて行きますよね。そのような体験をさせたいと思っている親や保育者の多くは、おそらくはこんなことを体験してほしいというイメージがある程度事前にあるんだと思います。しかし、大人が「ほら、これちょっと見てごらん」と何かに注目させようとしても、当の子どもはそれとは全く関係ないところに目を向けて「あ、おもしろい石があった」などと夢中になってしまいます。今度はその石をひっくり返して「あ、虫がいた!」とか、「いろんな色の石があるな、おもしろいな。もっとかっこいい石ないかな」と、どんどん自分の興味がある方へいってしまいます。

 自然という素材には無限の刺激と多様性があって、大人が意図した通りの教材になるとは限らない。その多様なものの中で子どもが何に注目するかは、本来は先に決められることではないですよね。10人いたら10通り関心も違うし、同じ石を見つけたとしても、石の何に興味を持つのか、形なのか、感触なのかといった関心の持ち方も違う。

 自然の中で子どもが何か体験するといった時には、大人の思いや考えとは違うところで子ども自身が感じたり、不思議がったりするようなことが起こるわけで、そういうことが実は自然を体験することなんだと思います。

 この時、自然を素材にして、こういうものを学ばせようという作為性で大人の思う方向に導いてしまうとそれは本当の意味で自然体験ではなくなってしまう可能性がある。大人側の思いが、子ども自身が興味を持ったものを通して、自然っておもしろいな、不思議だな、こわいなとか何か感じてくれればというのであれば、自然体験というのは子どもの成長や学びにとって意味あるものになる可能性がありますね。

小西貴士

小西 お話を聞きながら、いやあ、子どもにとっての体験というのはそういうものだなよあと思いながら、一方で大人の作為性の強い自然体験活動を熱心にやっていた時代の自分も思い出しました(笑)。

 さて、そんな大人の作為性が強い場も弱い場も含めて、教育活動としての体験の場や機会のあり方が多様になってきています。親だけでなく教育者も「どれを選んだらいいのか」を迷っている、不安になっているところがあるようにも感じます。そういう僕自身が、自然体験活動に関わっている中で、迷ったり、違和感を抱くこともあります。

 その一つは、人も自然の一部だというところまで立ち返るあまりに、今この瞬間を人が生きているという生々しさを置き去りにしているようなことがあるのではないかということです。たとえば、自然の中でゆったりと過ごすような活動をしていても、その時間が終わるとすぐにスマホを手に取ってSNSをチェックしたりする「私」という人がいる。にも関わらず、自然体験活動をしている間は、まるでこうした機材やネットワークへのつながりは存在しない世界のように活動を展開してしまうことが多々あります。もう少し言えば、自然体験活動がテクノロジーの発展への反感がベースとなった活動になってしまっていることへの違和感があります。

 もう一つは、ひと昔前はこんな風に育ってきたものだとか、自分が育てられたように育てたいという思いが強く出てしまっているのではないか、ということです。ほんの数世代前までは、こんな環境でこんなことをして育ってきたという事実が、自然体験活動を推進することを支える背景にあるかもしれません。

汐見稔幸

汐見 そうですね、自然からいろんなことを学んで、人間が自然性を取り戻していくことを説いている人たちは、団塊の世代、あるいはもう少し前の世代の人たちの生き方をモデルにしているんじゃないかと僕は思っています。

 よく「昔はよかった」などと言いますが、それは食べるものに困るような時代に戻れということではないと思います。つまり、生活がある程度は便利になってきていて、病気になったら医者にも行けるようになっていて、ある程度の知識も備わっている、2、3世代前ぐらいの時代です。冷蔵庫、洗濯機、掃除機などができて、今まで苦労してきたことが楽にできるようになっていった時代でもあります。日々の生活が楽になっていっている実感をもっていて、頑張れば社会を作り変えられる、自分もその一員になれる、みんながそう捉えていた時代ですよね。その頃は、子どもたちは遊びでも十分に満足することができました。たくさん木に登って、川にドボンと飛び込み魚を追いかけたりして、十分におもしろかった。遊び道具はあまりないから自分で作るしかないけど、ない中で工夫して作る、それがまた面白いという時代です。その頃の大人たちは、そういう遊びの中で試行錯誤してきたノウハウを活かして生きていっていました。

 だから、たとえば僕もそうですが、団塊の世代などは自分をモデルにして今の子どもたちにもそうした自然の中でのいろいろな体験をさせようとしているように思います。「自分たちの時代はよかった」ということを別の言い方で言っているように感じたりもします。

 僕自身、たぶん人類の歴史の中でも最もいい時代に育ってきたなと思っていまして、次の世代は地球全体が危機的な状況の中で生きていかなければならない、などと申し訳なさも感じてしまいます。

 自然というもので僕らは何の意識も持たずにただ遊んでいたし、それらをどんどん削って都市化・文明化してきてしまったけど、この体験の意味をもっと多角度から学問にしなきゃいけなかったんだという反省があります。今の若い世代が、あなたたちは発展させる方向を間違えてしまったのではないか、と言えば、そうだと思うけど、それをきちんと学問化してこなかったことは間違いなく問題だった、というしかないと思います。

 悪くなるばかりの地球環境を今すぐに変えようとしても、はい、こうしたら明日にはよくなりますよ、ということはありえません。ですから、この状況を作ってしまった僕らの責任として、これを変えられる力をどうか持ってくれと次の世代に必死に頼んでいる、とも言える状況なんだと思います。この力を持たないと次世代自身が幸せになれない。

●「リアリティ」と「アクチュアリティ」

小西 何世代か前の人は、自然の中での遊びを通して人以外の生命とふれあったり、自然現象と出会うことで学んでいたりしたことが、そのまま自分の暮らしに活かされているという実感があったでしょうね。でも、ここまで社会の変化が進んでくると、そこにはとても大きなギャップがあるように思います。たとえば、僕が20年前に子どもキャンプに取り組んでいた頃、キャンプへの参加申し込みは電話で話したり、手を動かして字を書いたりして申し込みをしたものでしたが、今やスマホでQRコードを読み取って必要事項を液晶画面に打ち込むというように変化してきています。

 少し極端な例かもしれませんが、僕自身、小学校の時に所属していた社会科クラブで本格的に石器作りをしたことがありまして。それはすごく楽しくて、何ヶ月もかけて作った鋭利な石器をよろこんで持って帰ったのですが、実際に使えるところがなくて、うろうろ持ち歩いているうちに親から「あぶない」と言われて…。

 体験活動で作ったものを自分の暮らしとつなげていくことを考えたときに、収まりどころがないといった感覚を、今でも覚えています。汐見先生は、体験活動におけるリアリティについてはどんなふうに考えられますか。

汐見 リアリティとは、日本語にすると現実性だけど、そんな表面的な理解ではなくて、もっと深い喜びとか実感が伴って「本当にそうだよな」「綺麗だったよね」とその人の心の深いところにある感情が響き続けているような感覚だと思います。生命的な機能のところが活発にうごめいているようなものをリアリティがあるといっていると思います。

 今の小西さんのお話は、昔の人は必要なものをこうやって自分たちで一生懸命作っていたのを現代の自分たちがやってみた、昔の人と同じように試行錯誤して、苦労して「できた!」となった。そこには確かに深い感情の蘇生につながるリアリティがあったと思います。しかし、そこで作ったものが現代の生活では実際に使えなかった。それは、ここではアクチュアリティがなかった、というとわかりやすいと思います。実際性というのかな。

 リアリティっていうのは、実際に体験することによってしか出てこないのですが、だからといって体験がすべてリアリティになるとはならない。人間の体験というと、体を使ったり、五感で感じたりすることそれ自体がリアリティだと考えられているけれど、実は違うと思う。人間は視覚だとか聴覚で得た情報を自分に都合のいいように加工して使っているからです。たとえばあるものを目で見て、情報として脳に送って認識していますが、実際にあるものが認識したどおりの姿かどうかはわかりません。人間は自分の脳が認識しやすい情報に加工して理解しているわけです。

 たとえば、今、目の前にいる小西さんに半分の距離まで近づくと顔の大きさが2倍になって見えるかというとそんなことはないですよね。網膜の中では物理学の法則に従って本当は2倍の大きさに映っているんです。でも実際に近づいていって、2倍に見えたら困るから、人間は、与えられた情報を脳で加工して同じ大きさだと認識するようにしている。その加工作業をしているときに、脳の感情を司っているところまで脳回路をつなげると、その情報が価値づけされていくんです。価値づけされた情報で感情が動くとき、「すごいなぁ」となる。そうやって、心が動いたとき、はじめて「リアリティがある体験をした」ということになるんだと思います。つまり、触ったから、匂いを嗅いだからリアリティがあるのではなくて、その得た情報が実際のものに対する感情の反応とそれに基づく価値づけが豊かになるとそこにリアリティが発生するんだと思います。

●「全体性」を感じる生活

小西 なるほど、リアリティとアクチュアリティですか。僕も、体験することと、今の生活との距離感があるからといって、つまりアクチュアリティがないことを体験することに意味がないとは思っていないんです。

 僕がこの八ヶ岳の地で暮らしていて今すごく感じていることの一つが「全体性」ということです。それは、人で言うと「身体性」と表してもいいかもしれません。僕たちは、持っている知識を自分の脳の外に出してなるべく多くの人たちと共有しようとしてインターネットのようなシステムを構築することはできたのだけれど、今のテクノロジーでは私たちの身体感覚を正確に共有することはできないですよね。まだまだ僕たちが感じている喜びや悲しみというのは、この生身の体で受け止めているものであって、そんな生身ひとつひとつが交わらないとどうにも生き難い現状が、まだまだある時代だと思っています。

 ある体験活動が日々の生活の中でやっていることとの距離感があること、たとえばある子どもが焚き火でお茶を沸かす体験をしたとします。でも、その子の実際の家庭での生活ではIHでお茶を沸かす。そうすると、その体験を通して得られたスキルは、実際に家庭で活かされることはまずない。では、体験の意味はなかったかというとそうでもない。消えかかった火の上に、自分で選んだ小枝を置いてみたら、また炎が勢いづいたというような体験は、その時の「わあ!また火が元気になった」というような情動をもって、自分が体を動かしていることで変化が生まれたという肯定感のようなものを生んでいるのではないか。そしてその肯定感がその子の言葉や態度という形になって現れて、たとえば優しい言葉や態度になったりしてゆくのではないかと僕は思っています。

 だから、実際の生活とは距離感があるし、直接的に何かの役に立たない体験であったとしても、つまりアクチュアリティはないかもしれないけれど、身体性としてはとてもリアリティのある体験になっている場合があると思います。

 それはそうと、この地での暮らしで全体性をすごく感じているのは、いろんな生命の営みを見て感情が動くことが多いからなのかもしれません。たとえば、この作物にはすくすくと育ってもらいたいなとか、この昆虫は厄介だよなとか、人の願いや都合はあるけれど、現実は願いや都合通りにはならないですよね。ある作物が、長雨が原因で生育が進まなかったとしても、その長雨が全ての生命にとって悪いわけではありません。逆に雨が多いことで活性化する生命もあります。そうなってくると、こうすればこうなるという直接的な理解を続けているだけではしんどくてかなわない。妻と一緒に散歩しながら、ひとつひとつの植物や昆虫を見ながら話をしていると、「ああこの意味は見出せなかったけれど、思わぬところでこの意味は見出せたね!」みたいなことがあるんです。

汐見 う〜ん、おもしろい。

 きっと人間の心には、世間の行動の仕方に合わせていくことを担っていく部分、たとえば「適応圏」とでもいえる部分と、人類史からもらった遺伝子を働かせながら、種々の自然といろいろな生命がつくりだしているこの世界が実際にはどういう世界なのかということを知って徐々につくりだしていく「世界像圏」とでも言える部分があるんじゃないかな。世界はあるいは宇宙はどういうものだということを知ってそれをイメージとして蓄えていく心の部分ですね。

 日頃は「適応圏」が働いていて、「世界像圏」は活性化しないけど、畑をじっくり観察しながら歩いていると、ちょっとした成長や変化、多様な生物の懸命の生き延び戦略などに接して、そうした「世界像圏」が活性化し出す。この二つの心の領域がふだんからつながり合っているといいんだけど、都会人、仕事人は、それがなかなかできない。でも小西さんたちは、そういうことができる生活を今楽しんでいるのだなって思いました。

 小西さんのいう「全体性」というのは、この二つの領域が次第に交わり合っていく様をいっているのかな?

小西 そうですね。たとえば、その散歩では家から出たばかりの時点では、こうすればこうなるというような直接的な理解に基づいた会話をしているんですね。「なぜ、あそこに植えたトマトは大きくならないんだろう?」って。でも、畑から森からひと通り歩いてくるうちに、嬉しいとか残念とか、おおスゴイ!とか言いあって歩いてくるうちに、結局話題は全体性のことに及んだりする。これは、認知だけでなく、感情のはたらきが関係していることが大きいのではないかと思うんです。

 人間が体験することによって得られる認知と感情は、今まで別々に理解しようとされてきたところがありましたよね。でも、最近人間以外の生命、昆虫類や鳥類や爬虫類や哺乳類の観察と研究を通して、随分と認知と感情を関連づけて理解するようにということが言われています。

汐見 近代哲学は、人間にとって認知、認識、理性ということを重視した哲学なんです。理詰めの考え方、つまり理性が正しいということが基本にあって、その理性を働かせるためのエネルギーが感情だと考える説があります。ピアジェなどはその代表ですね。つまり、感情自体は独自に情報処理をしているとは考えられていなかったんです。

 ある花を見る時、脳の中では「これは桜という花」「これはピンクという色」と見たものを自分の知識と照らし合わせて分類して認識していく。そして、「春になったからこの花が咲いてきたな」と考える。そのように個別の知識をどう組み合わせて理解するかというのが認識という情報処理で、それは大脳皮質でされていると考えられてきたわけです。でも、小西さんがおっしゃったようにそれだけではなく、感情と認知を分けることなく、それを漠然と感じながら全体をとらえて「何かいいなぁ」と情報処理している世界もある、ということですね。

 今お話をお聞きしていて、五感は、感情の世界にも関わっているし、情報の世界にも関わっているわけだから、認知的に情報処理しているのと感情的に情報処理するのを分けてしまうことにはそもそも無理がある。なので、できるだけ分けないで自分の中で統一して世界を理解しようとするのを先ほど「全体性」とおっしゃったんじゃないかと思いました。脳には、生きている喜びや、命そのものを一生懸命に機能させるという層があって、そこのところが人間の生命機能全体を基底で統合しようとしている、人間の一番大本営の部分。そういうところも分けずに人間が世界と対峙しているときの反応の仕方全体を直観的にとらえようしている。そんなイメージで今の話を聞いていました。

 つまり、感情反応と情報処理の一体性の上に、さらにあらゆる生命が全てつながっていることを感じ取る。この森の豊かさも、この虫も私もすべてがつながっている、具体的な世界は徹底的に多様である、その多様なものが別の見方をすると一つである、そんな感覚。それを感じたとき自分の生命のしあわせを感じる、そういう風に今の小西さんの話を感じ取りました。

小西 認知と感情を切り分けないように捉えてゆこうという動き、それってなぜ生まれてきたのかというと、やっぱりAIの開発が関係してると思うんですよね。人間はどこかで人間を再現したいという欲求があって、人間を理解しようとすると認知と感情を分けて理解しようとする限界が見えてきていると思うんです。

汐見 AIっていうのは、できるだけ機械を人間の情報処理の仕方に近づけようとしているわけです。これまで情報の処理の量や速さだけでやっていたのが、人間は大まかに仮説を立てているとか、感情の世界も関わっているということがわかってきたので、AIもそれに近づけて感情の世界まで処理できるようなものを作り出そうとしている。たとえば、何かに触れた時に、「いたい」「あつい」といった感情を出せるAIを作ろうとしています。人間が実際に情報処理する姿に近づこうとしているのです。

小西 ここで話を戻して(笑)、自然体験活動の具体的な例でいうと、氷点下10度の森に幼児と出かけると、泣きながら「さむいー!」って言う場面に出くわすことがあります。ちょっと再現が難しいんですが、それはそれはやるせないトーンなんです。それは何によって生み出されているのかというと、やはり自然現象によって生みだされているのだと思います。毎日、室温を25度湿度50%に管理されている中では、この「さむいー!」はきっと生まれません。その時に一緒に過ごしている僕はそれを共有することができて、「ああ、そうだよねえ。わかるよ」となる。「さむい」という言葉を認知することと、「さむい」という辛さ切なさの感情を別々に習得してゆくわけではなくて、とても緻密で全体的に「さむい」という概念や、そこからつながる行動を自分の中に作ってゆく。こういった意味で、自然体験活動を捉え直した時、この体験をするとこういったポジティブな効果や影響がありますよ、という直接的な理解の仕方に慣れてしまうと、自然体験活動の本質を見失うことになりかねません。

>>>その②に続く