30年以上に渡り園現場に寄り添い、様々な問題・テーマを取り上げ、保育の道すじを示し続ける保育雑誌「げ・ん・き」から、おススメの特集をご紹介いたします。
※本記事は、2回に分けてお届けいたします。
②:「遊びの援助」とは何か ごっこ遊びから読み解く その② ※この記事
「遊びの援助」とは何か
ごっこ遊びから読み解く その②
対談
細田 直哉
(聖隷クリストファー大学 准教授)
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吉本 和子
(やまぼうし保育園 園長)
幼児の遊びでは、いわゆるごっこ遊びがたくさん見られます。その内容を見ていると、その子どもたちの、社会の仕組みについての認識がどれくらいあるのかがわかります。そして、遊びの中で自身の経験をどれだけ細かく再現できるかを見ると、発達の段階もわかります。特に、複数の子どもがともに生活していっしょに遊ぶ保育の場では、さまざまな遊びが生まれて進行しながら、刺激しあって、つながって、発展していくという姿が見られます。
保育者は、こうした遊びをどのように理解して、遊びの姿にどう関わっていくべきでしょうか。
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電車から新幹線へ
働きかけが遊びを深める
細田 遊びの具体的な内容をどれくらい細部まで正確に再現できるかは子どもの社会的な知識や経験のレベルによるようにも思われます。とすると、遊びの再現の質を高めるために、子どもの知識や経験を増やすための働きかけを行うことも遊びの援助としてありえるのでしょうか?
吉本 はい。そうした働きかけが遊びを深めていくこともあります。そうした事例をひとつご紹介しましょう。わずか2人の子どもたちがはじめた「電車ごっこ」が保育者の援助によって大人数の子どもたちが関わる「新幹線ごっこ」へと展開していった事例です。
細田 その「電車ごっこ」はどのようにはじまったのですか?
吉本 ある日、乗り物好きな二人の男の子が椅子を利用して「電車ごっこ」をはじめたこと、それが長く続く遊びのはじまりでした。気づいた保育者は「椅子だけでこれほど夢中に遊ぶのだから、運転手の制服や運転席を用意すれば、もっと遊びが広がるだろう」と考えました。翌日、子どもたちが登園する前に、運転手の「制服と制帽」を保育室の衣装ダンスにかけておいたり、つい立てに紙を貼って計器類を描いた「電車の運転席」を保育室の中に設置しておいたりしたのです。
細田 「電車ごっこ」で夢中に遊ぶ子どもの姿の中に「発達の芽」を見て、その小さな芽をさらに伸ばし、大きく育てる環境構成をしたのですね。
吉本 翌朝、登園してきた子どもたちは、さっそく、その「制服と制帽」を見つけ、喜んで身につけました。さらに、立派な「運転席」があるのを見て、その後ろに2列に椅子を並べて「電車」の座席を作りはじめめたのです。
細田 それを見た他の子どもたちはどうしましたか?
吉本 保育室の中に「電車」があれば当然乗りたくなりますよね。他の子どもたちはリュック・水筒・帽子などを身につけて「乗客」としてその電車に乗り込んできました。
すると、キッチンでままごとをしていた女の子たちも連動するように「駅弁」をつくりはじめたのです。保育者が園内研修の時に出たお弁当の容器パックをきれいに洗ってキッチンに置いておいたことが役に立ちました。
細田 保育者の遊びの展開の見通しの確かさと環境構成の適切さによって、遊びはこのようにつながっていくのですね。
吉本 この遊びにはまだ続きがありました。さらに、それから1ヶ月後、今度は別の女の子たちが「新幹線ごっこ」をはじめたのです。運転手と車掌は前回と同じ男の子たちでしたが、席の配置は「対面」から「横並び」に変わり、乗車券を見ながら「○○ちゃんはここね」と伝えていましたから、席は指定席であり、前回の「電車ごっこ」のような在来線の電車ではなく、「新幹線」になっていることがわかります。
細田 本物が細部まで細かく再現されているわけですね。
吉本 ところが、電車をつくり、この遊びをはじめた女の子たちはキッチンに入っていきました。この子たちは、新幹線の「車内販売の販売員」がやりたくてこの遊びをはじめたのです。そして、つくったお弁当をワゴンに乗せ、車内を回って注文をとったり、お弁当を販売したりしはじめました。
細田 「新幹線ごっこ」の動画を初めて見せていただいたときに驚いたのは、本格的な「車内販売員」の登場でした。使われているワゴンはどうやってつくったのですか?
吉本 車内販売用に女の子たちが使っているワゴンは、普段は清掃道具を入れておくための生活用品です。
細田 普段は生活に使っている「清掃用具のワゴン」を遊びの中で「車内販売のワゴン」に見立てるとはおもしろい発想ですね。
吉本 ええ。「使った後はもとの場所に戻すこと」「ゆずり合って使うこと」のルールを守れば、部屋にあるものはなんでも使っていいことになっているのでこうしたおもしろいアイデアが生まれます。
細田 「清掃」といえば、「新幹線ごっこ」の動画で私が最も驚いたのは、終点の東京に着いた後、ピンクの服を着た女の子が誰もいない車内に乗り込んできて、実に真剣な表情でていねいに「清掃活動」をはじめることです。確かに、本物の新幹線が東京に到着すると「ピンクの服を着た女性たち」がテキパキと清掃活動をはじめますが、あの役割までもが遊びとして再現されているのはさすがに驚きました。 「清掃」は誰かから指示されてやらされる場合には「嫌な仕事」になりますが、このように遊びの中で主体的に演じるときには「楽しい遊び」になります。この事実の中には、人間の子どもの発達にとって、役を演じる遊びが果たす重要な意味が隠されているのではないでしょうか。
子どもの認識を深める
大人からはじめる遊び
細田 はじめの「電車ごっこ」は、電車好きの子どもがはじめた「乗り物としての電車」を再現するごっこ遊びでしたが、その次の「新幹線ごっこ」になるとその乗り物に関わる様々な職業に関する知識が求められる複雑な遊びになっています。この遊びの展開を支える保育者の援助とは具体的にはどういったものだったのでしょうか?
吉本 はじめの「電車ごっこ」とその後の「新幹線ごっこ」のあいだに「交通」をテーマにした「保育者からはじめる遊び」を行い、電車に関する新しい知識を子どもが得られるような意図的な働きかけを行っていました。
細田 「保育者からはじめる遊び」というのは、具体的にはどのようなものでしょうか。
吉本 様々な種類がありますが、ひとつだけ例をあげれば、「絵カードを使ったクイズ」があります。
まず、いろんな乗り物の絵が描いてあるカードを子どもたちに1枚ずつ配ります。配り終わったら、その絵カードをいくつかの視点で分類するような質問を保育者は出します。
最初は「道路を走る車を持っている人はここに置いて」など、やさしいレベルからはじめ、徐々に「人を運ぶ乗り物を持っている人は?」というように、交通に関わるいろんな知識と分類の質問をしていきます。
こうしたやりとりをしながら、子どもは乗り物をいくつかの視点でみて、違いを知っていきます。特に、年長児ぐらいになると、そうした理解を言語化することが大事になります。保育者はそのあたりを意識しながらこの遊びを組み立てていくことが必要になってきます。
細田 大人からはじめるけれども、知識を与えるだけの行為ではないということですね。
吉本 一方的に、乗り物の名前や働きを教えることではありません。あくまでも、やりとりや遊びに、子どもが自発的に参加することが大事になります。子どもがそこに参加して遊びながら知識を得られるように工夫して組み立てています。
この遊びへの参加は子どもが決めます。はじまっても他で遊びを継続したい子どもはそのまま遊んでいます。「自由参加の設定保育」という言い方をするとわかりやすいかもしれません。やっているそばで耳だけで参加してもいいし、少し離れたところから見ながら、目だけの参加でもいい。また、嫌になればいつ抜けてもいいし、途中から入ってもいいです。
細田 その遊びで学んだ情報は、子どもにとっては新鮮な刺激で、新たな遊びのイメージを広げることにつながりますね。
吉本 子どもは、自分が知っていること、自分が見てきたこと体験したことを再現してその世界の中で遊ぼうとします。生活しながら、成長しながら、新たな言葉や認識を広げて、遊びの内容を変えていきます。このように保育者から意図的に社会についての認識を高めてもらうことも、体験の一つであり、遊びに変化を与えます。 こうした実践の後、子どもの遊びにもそれが現れることがあります。保育者も、その遊びの変化を見ることで、子どもの認識がどんなふうに広がったか確認することができます。
子どもの認識を深めるために
季節や活動に合わせた計画づくり
細田 そうした遊びの核となるテーマには年間計画のようなものがあるのですか? それとも、その場の子どもたちの姿を見て、即興的に立ち上がってくるものなのですか?
吉本 子どもたちの認識をバランスよく育て、深めていくために、子どもたちが日常生活を通して体験するものごとを遊びのテーマとして、季節や行事に合わせてある程度の計画のもとに配置しています。
細田 具体的にはどのようなテーマがあるのですか?
吉本 たとえば、遠足で動物園、水族館、交通科学館などに行くことも、子どもたちの認識を深める実践の一つといえるでしょう。そして、交通科学館に行くとき、行く前に、「交通」をテーマとした遊びの実践をするのか、後にするのかは、保育者が子どもの様子や遊びの水準を見ながら判断します。夏、プールのあるような時期には、「水」というテーマがあります。また、服装が薄着になったり、水着になったりする機会が増えれば、手腕足など身体の部位に興味がいくので「人間」「身体」というテーマも扱えると思います。
細田 季節の変化や行事などを通して子どもたちが共通して体験することをその場限りの体験で終わらせず、より深い学びにつなげていくのですね。その「最初の体験」に対して、多様な角度から何度も繰り返しアクセスし、異なったかたちで体験し直す環境を構成することによって、子どもたちの学びが深まっていくことを支えているのですね。「最初の体験」はこうして「主体的・対話的で、深い学び」の素材として保育のなかで活かされていることがわかりますね。
テーマのバリエーションには、毎年、大きな変化はないのでしょうか?
吉本 そんなに大きくは変わらないです。異年齢混合でクラスを編成しているので、3年間かけていろんなことを追って行けるようにと考えています。「人間」などの知っていてほしいと思うことは毎年入れたりしますが、その年の子どもの興味や認識の程度に合わせて変えます。
細田 たとえば、「人間」のテーマを年少で経験した子が年中、年長となっていくにつれて、認識が深まっていくなどの変化が見られますか?
吉本 参加の仕方がまず違うと思います。年少のうちはそんなに興味を示さなかったり、参加することはハードルが高いけれど、興味はあって近くで聞いていたりしています。それがだんだんと積極的に参加するようになってきます。
その場のルールも理解しているかの違いもあります。年少児だと知っていることがあるとすぐにその場で言いたいという気持ちが強くて言葉にしてしまうのですが、年長児くらいになると話している人が話し終わるまで待って、考えてから自分の発言をするといった姿に変わってきます。あとは自信を持って発言するようになりますね。
繰り返しテーマに触れる
角度を変えて学ぶ
細田 異年齢の関わりがある中でそのような計画が毎年行われると、子どもにとっては同じテーマに3年間繰り返し触れることになりますね。そのことの良さはありますか?
吉本 すべてが同じ内容というわけではないですけど、深まっていく部分はあると思います。加えて、これは子どもにとって大きいことなのですが、「知っている」ということでの情緒の安定という効果があります。「それ知ってる、前にやった」と。子どもは、知っていることには、安心して参加できるようになります。
細田 それはフィンランドの小学校の工夫と同じですね。日本でも子どもの数が極端に少ない僻地では、異年齢の子どもが一緒に学ぶ「複式学級」になる場合がありますが、フィンランドの小学校では、子どもへの教育効果を考えて、意図的に複式学級にしています。1年生と2年生、3年生と4年生、5年生と6年生が同じクラスで一緒に学んでいるのです。
子どもは1年生の時と2年生の時で、同じテーマを学習します。といっても、1年生と2年生では少し異なった角度から学びます。すると、1年生のときはよくわからなかったことが、2年生になって自信を持ってわかる。同じテーマの中で自分の位置が変わってくることで自分の成長を実感でき、下の子に教えることができるようになります。
日本のように学年で区切られていると「できない子」はいつまでも「できない子」のまま、「できる子」はいつまでも「できる子」のままということが多いのではないでしょうか。複式学級では1年生の時はあまりわからなかった子が、2年生になると下の子どもに教えられる存在になる、つまり、自分の位置が集団の中でどんどん変わっていくのが実感でき、自己肯定感が高められます。それと同じように、保育園の幼児の異年齢クラスでも同じテーマに少しずつずれながら触れることで、最初はただそばにいただけとか聞いていただけだったのが、だんだんと中心的な役割を持っていくということが子ども自身にも誇りに思えるでしょう。
吉本 幼児は異年齢クラスなので3年間同じ部屋で過ごします。保育者も基本的に変わりません。それが子どもたちに安心感を与え、新しいことにチャレンジしてみようという気持ちになれるのかもしれません。しかも、保育室にあるものは何を使ってどんな遊びをしても自由というのをだんだんわかるため、遊び方も次第に工夫していくのだと思います。
他者の体験を再現する
他者の再現に参加する
吉本 研修を依頼されてある保育園へ行ったときのことです。保育室で子どもが遊んでいる様子を見せてもらいました。そのときは「水の生き物」をテーマに遊んでいました。
遊びのはじまりは一人の子どもの水族館体験でした。その子が水族館に行った体験をみんなの前で話したことをきっかけとして「水族館ごっこ」がはじまったそうです。「水族館には何がいたの?」と聞くと、「クラゲとか、カメとか…」と言ったので、それを折り紙でつくっているところでした。
このように、ある体験をした子が一人しかいない場合には、その一人の体験をどのように他の子どもと共有して遊べるかが課題になります。
細田 どのような援助ができるでしょうか?
吉本 水族館に行った子が一人だったら保育者が「誰と行ったの?/入口はどうなっていたの?/どんな魚がいたの?」と聞いていくことで、その子どもの水族館の体験が他の子どもにも具体的に見えてきます。
細田 クラス全員で体験したことなら、共通体験が土台にあるため、イメージの共有もしやすく、遊びとしても展開しやすいと思います。しかし、この「水族館ごっこ」の場合のように、一人の子どもの体験をクラスの他の子どもに広げて遊ぶことはより難しいと思うのですが、あえてそれにチャレンジするのには何か理由があるのでしょうか?
吉本 実は、子どもの遊びを見ていると、子どもたちはそのことをそれほど難しいこととは捉えていないようです。子どもは自分が直接に体験してないことでも、それに参加して自分の楽しみにすることができるのです。
たとえば、あるお店屋さんを実際に体験したことがない場合でも、一般的に「お店屋さん/お客さん」という役割分担ならば普段からいろんな形で経験しています。そういう慣れた形の上であれば、知らない商品、体験していないお店でも自然に参加していきます。
細田 そのような予測や経験を応用できない場合はどうでしょうか?
吉本 子どもたちは時として、他の子どもにはまったく想像できない体験さえ再現して遊ぼうとします。たとえば、以前、「乗馬体験ごっこ」で遊んだクラスがありました。遊びのきっかけになったのは、ある子どもが家族旅行で牧場に行ったことでした。そのたった一人の子どもの乗馬体験が他の子どもも巻き込む遊びに広がったのです。
細田 この一人の経験を広げて他の子どもも一緒に遊んでいこうとする時の保育者の判断や具体的な援助はどのようにするのでしょうか。
吉本 この乗馬体験の時には、その経験をした子どもがその楽しさをみんなに伝えたいという気持ちが強かったのでしょう。自分で「馬」をつくり、乗馬ができる状態にして、みずから「乗馬体験の受付」になりました。
細田 みんなが乗れる「馬」はどうやってつくったのですか?
吉本 「イス」に「馬の顔」をつけて乗れるようにしたのです。本当の馬のように歩くことはありませんが、お客さんはヘルメットを被らせてもらって、イスの馬にまたがり、餌をあげたり、撫でたりできます。
細田 「イス」に「馬の顔」とはよく考えましたね。それなら確かに乗ることができますね。
吉本 ええ。子どもの遊び方を見ていると、実際に自分が体験したことを細かく再現していました。お客さんに餌を渡して「こちらへどうぞ」と言って誘導します。そこで餌の与え方も実際にやって見せ、詳しく説明していました。実際に乗馬を体験し、深く心を揺り動かされた子どもはそのことを人に伝えたいという気持ちが強いので、それが遊びを推進する力となります。
細田 自分が体験した楽しさを再現したいだけでなく、その楽しさを他者と共有したいという強い思いが子どもにはあるのですね。
吉本 お客さん役の子どもは、今から何があるのかはよくわからないけれど、とりあえず、お財布を持って行って、お店の人が言うようにやりながら一緒に遊んでいきました。
細田 この時の保育者の援助は大切ですね。保育者は体験してきた子どもと会話を重ねながら、具体的な遊びの姿につながるように子どもの記憶と言葉とイメージを結びつけていくのでしょう。この乗馬体験という遊びの場合も、もし大人から働きかける遊びを行って、新たな知識や認識を得たらまた違う展開をしていたかもしれませんね。
人は人の役に立ちたがる
赤ちゃんも他者の役に立ちたがる
細田 今の「乗馬体験」の遊びのエピソードを聞いていて、子どもたちがなぜ自発的に役を演じて遊ぼうとするのかわかった気がします。子どもたちのなかにある「人の役に立ちたい」という基本的欲求が子どもたちを自発的に「役割」に向かわせているのではないでしょうか。
吉本 「人の役に立ちたい」ということは、人間にとって基本的欲求のひとつなのですか?
細田 はい。それが私たち人間の生き方の特徴をつくっているのではないかということが最近の心理学実験でわかってきました。たとえば、歩きはじめめて間もない1歳過ぎの赤ちゃんに、大人が何らかの行動をやりかけて失敗した様子を見せると、それを見た赤ちゃんはその人が「何をしたかったのか」を理解し、それができるように助けてあげるのです。そうした行動を事前に学習したわけでもないのに自発的にそうするのです。
吉本 赤ちゃんにそのように他者の意図を読み、それを助けようとする力があることは乳児保育をしているとよくわかります。乳児保育でも、やはり赤ちゃんは0歳のうちから大人がやろうとしている行動の意図を察して、それを助け、協力しようとする姿を見せるからです。
細田 それが他者とのごっこ遊びを支えている根本の力であり、われわれ人間はまさにその基本的欲求を軸にして、お互い助け合う生き物として進化してきたのでしょう。目の前で「あること」が進行しているとき、その「あること」に参加するには、自分は何らかの役割を身につけて、それを助けられる存在としてそこに入らなければならない。そういう根本の思いが人間にはあり、さらにそうしたつながりを広げていくことに喜びを感じるのではないでしょうか。
他者の活動に価値を見出す
他者の活動に参加する
細田 「人の役に立ちたい思い」の他にも、子どもたちを遊びへ向かわせる、もうひとつの基本的な欲求があるように思います。それは「学び」への欲求です。つまり、自分が受動的に体験したことを能動的に再現しながら、もっと深くわかろうとする知的な探究心です。
吉本 子どもを見ていると、確かに自分たちが経験したことを再現して楽しもうとしますが、自分たちが経験していないことでも、友達が楽しそうに遊んでいたら、そこに加わり、自分の楽しみに変えていく力があります。
細田 はい。今日のお話でそのことがよくわかりました。私はこれまで、ごっこ遊びを見るときに、自分で体験したことを再現して遊ぶことの楽しさはよく理解できていたつもりでした。しかし、先ほどの乗馬体験のように、ある一人の子どもしか体験していないことを他の子どもが楽しめるということがなぜなのかよく理解できていませんでした。
吉本 確かに、自分自身の体験を再現して遊ぶことと比べて、自分自身が直接には体験していない他の子どもの体験を再現し、それで遊ぶことのおもしろさというのは、私たち大人にはわかりにくいことかもしれませんね。ただ、子どもの遊びでは自然に起こることでもあります。
細田 ええ。よく考えてみたら、それこそまさに、私たち人間が赤ちゃんの頃から一貫してやり続けてきたことであると気づきました。
というのも、人間の赤ちゃんは、たったひとりで自然環境の中に生まれるわけではありません。他の人間が生活している環境の中に生まれます。つまり、赤ちゃんのまわりには、つねに他の人々の活動があり、その活動の意味は赤ちゃんには十分にはわかりませんが、そこに何か意味がありそうだということはわかります。
そのため、そのときの自分の能力のすべてをかけて、そこに参加し、人々を助けようとします。それこそまさに、私たち人間の発達を駆動してきた根本の力ではないでしょうか。
応答的な環境が開く
コミュニケーションの欲求
吉本 子どもは自分以外の人を意識できるようになったその時から、コミュニケーションをとりたいという欲求を持っていますよね。
細田 ええ。その欲求が十分に開花するかどうか、それは子どものまわりに応答的な環境があるかどうかにかかっています。赤ちゃんのあらゆる表現を受け止め、応答的にかえしてくれる環境がまわりにあって初めて、赤ちゃんはコミュニケーションの欲求を十分開花させることができます。
吉本 それこそまさに園やクラスの家庭的な雰囲気なのでしょうね。実際に、今日ご紹介したような遊びや異年齢クラスが成り立つには、自分がこのクラスの中、部屋の中で自由だと思えていることがとても大事です。この部屋の中では何をしてもいい、何を使ってもいい、そういった自由がある、それをお互いに認めることができる、それを感じ取ってクラスの中でのいい関係ができていないと成り立たないのです。さらには、自分ができないことを保育者やお友達に「手伝って」と言える雰囲気が部屋にある。そういった関係性が大事です。
ですから、このような遊びがどうしてできるのかと聞かれても、1日2日でこうしたらこうなりますとは言えない部分があります。日々の保育の積み重ねで関係性もつくられ、それが遊びを支える土台になるからです。
遊びは生きることの喜び
人として生きることの表現
細田 保育の世界では「遊びは学び」と言われます。もちろん、その通りですが、この言葉の中にある「学び」をどのように理解するかによって、この言葉の意味は変わります。「学び」がたんなる「〜のための学び」のような「手段」として捉えられている場合、「遊び」もまた「学び」のための「手段」へと矮小化されてしまいます。
「遊び」は確かに「学び」ですが、それは「学ぶこと」が人間にとっての「生きること」そのものであるという意味においてそうなのです。人間は「学ぶこと」によって、他者と様々な「道具」や「イメージ」を共有し、「世界」を共有しながら発達します。そのように他者とつながりながら、「他者の役に立てる」存在として自分の価値を認識していきます。そして、その「役に立てる」範囲をさらに広げることで自分の存在価値を大きくしていきます。それはまさに人間として生きること、そのものです。
吉本 今日語ってきたごっこ遊びの発展のプロセスそのものですね。そうすると、「遊び」とは何か、「遊びの援助」とはどういうことになるとお考えですか?
細田 「遊び」は、何かの「手段」ではなく、人間が「生きること」の「目的」なのではないでしょうか。まさに「遊びをせんとや生まれけむ」です。人間として生きるとは「遊ぶ」ことなのです。そして、その「遊びを援助する」とは、過去から受け継いできた人間の文化と、現在目の前にある多様なものに出会いながら、子どもとともに生きること。そして、子どもたち一人ひとりの力が十分に生かされる素晴らしい世界、今よりもっと素敵な世界が実現されるよう心をくだくことなのだと思います。
吉本 「遊びを援助する」とは、たんなる「世界の再現」にとどまらない、と。
細田 それを超えて「もっと素晴らしい世界の実現」にまで進んでいくということですね。「遊ぶこと」そのものが「人間」として生きることの深い喜びにつながっています。その観点からみれば、「遊び」とは、人間としてこの世界に生きることの最高の表現であると言えます。 保育者は子どもとともにこの世界を遊びながら、来るべき未来の世界のイメージを日々創造しているのです。
細田 直哉(ほそだ・なおや)
東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。小中学校教員、農業、野外保育のNPO活動などを経て、現在、聖隷クリストファー大学社会福祉学部こども教育福祉学科准教授。発達を支える保育環境が研究テーマ。専門は教育学・心理学。主要著書・訳書に『あそんでまなぶ わたしとせかい』(みらい)、『身体とアフォーダンス』(金子書房)、『アフォーダンスの心理学』(新曜社)など。
吉本 和子(よしもと・かずこ)
1976年に尼崎市におもと保育園設立(園長)、1980年に同市に久々知おもと保育園設立(園長)、1999年に宝塚市にやまぼうし保育園を設立(以降、園長)。著書に『乳児保育〜一人ひとりを大切に育てるために』『幼児保育〜子どもが主体的に遊ぶために』などがある。乳幼児の発達をふまえた保育の実践に取り組みながら、全国各地の保育園や幼稚園での研修活動にも忙しい毎日を送る。